タケさんのざ・音楽は表現だ!!
中年の主張・合唱編 その7:
ダイナミクス 〜この曖昧なる、やっかいなるもの〜
(01/11/02)
中年の主張・合唱編 その6:
あらためて、母音と子音について
(01/11/02)
中年の主張・合唱編 その5:
息から声への転換 〜ハスキーボイス・クリアボイス〜
(01/10/02)
中年の主張・合唱編 その4:
息づかいと音・声 〜人であるかぎり〜
(01/10/02)
中年の主張・合唱編 その3:
主体的解釈の重要性
(01/10/02)
中年の主張・合唱編 その2:
感情と音
(01/09/03)
中年の主張・合唱編 その1:
音楽と雑音
(00/09/10)
合唱練習の3要素 (98/10/14)
ダイナミクス 〜この曖昧なる、やっかいなるもの〜 (01/11/02)
私たちが普段唄っているときに、「ここはフォルテだから、もっと大きく」とか、「ピアノなのに、ちょっとうるさくないか?」とか言うことがありますよね。音量表示をよく見てらっしゃる証拠で、ちょっとうれしいのですが、さて、この強弱って、どんな風に決めていって、どのくらい出せばいいものなんでしょうかね?
先日ある方のメイルを読んでいて、なるほどと思ったんですが、「ある曲の中で最大のボリュームを100%の出力で出してみて、これを基準に、それより小さい音量を決めていく」ということ、実は意外にやってないですよね。え?やってます?そりゃすごい。私、やってませんでした。ま、とにかくそのくらい、声のボリュームっていうのは、けっこう曖昧なものなんですね。
で、この音量というヤツが、歌の表現においては結構やっかいだったりすることがありますよね。高い音をピアノでだせ、とか、自分のパートは低い音なのに全体的には大きい音で埋もれてしまう、とか。それから、ffとffffの違いがうまくつかない、とか、クレッシェンド・ディミヌエンドが上手くいかない、とか。こういうとき、みなさんはどのように対応しますか?
音量と体の使い方の関係を考えるときに不可欠なのは、音量と息の量です。大きな音を出そうと思うと使う息の量も増えてきます。これは、息が多く流れれば音源(=声帯)の振幅が大きくなる、と言う理屈で解決できます。息を一度にたくさん流そうとすると、体は緊張していきます。
逆に、音量を小さくしようとするなら、体の緊張を抜こうとします。実はここがくせ者で、高い音をピアノで出そうとするときつく感じて上手くいかない一つの原因と私は考えます。高い音を出そうとすると、音源(=声帯)の振動数を上げようとして声帯を緊張させるように体が動きます。
ところがこの動きが、息の量を少なくしようとして弛緩させようとする動きと干渉しあうわけです。この干渉が、「ピアノの高音」を出しにくくさせているのではないのか、と思うのです。
ではどうすればよいか。この答えの一つが「意識的な息のコントロール」だと考えます。すなわち、弱い息をあえて積極的に体を使って作るのです。体を緊張させながら弱い息を出すのですから、高い音を出そうとする緊張を妨げることが少なくなるのではないか、と思うのです。ご意見、ご感想、ご批判、お聴かせください。
音量相互の相対的な関係について、学生の頃におもしろい話を聞いたことがあります。それは、「音量の増加というものは、唄う側にとって指数関数的であり、聴く側にとって対数関数的である」というものです。これはどういうことか、と言うと、それぞれの関数をグラフにすると何となく分かるのです。
歌い手が自分の声を大きくしていくときは、グラフの上がり方は右に行くほど急になります。対して、大きくなってくる声を聞いているときは、グラフの上がり方は右に行くほどゆるやかになるのです。この2つをまとめると、「唄っているときの声は、自分が思っているほど大きくは聞こえていかない」となるでしょうか。
これをふまえて、先ほどの「ffとffffの区別がつかない」という事態はどうすれば解決するのでしょう。考えてみてください。作曲者が一つの楽曲の中でffffまで使ったとします。これを相対的にはかって正確に音量を決めたとすると、fがかなり弱い音となる可能性がありますね。
私が知る限り、一つの組曲の中でffffからppppまで使っているものがあります。これを、音量に限界のある人の声できちんとやろうとすると、これは相当に気を遣う必要と、歌い手一人一人に正確で冷静な耳が要求されることになると思います。また、ともすると全体の広がりや豊かさに影響を及ぼすことも考えられます。
こうしたことから、音量の記号はある程度感覚的なものと考えて差し支えないのではないか、と思うのです。そして忘れたくないのが、小さい音であってもそれが声である限り、と言うより、声であるからこそ、意識的・積極的な体の使い方を通して表現されるべきものである、ということではないでしょうか。
今回はこの辺で。では、またねん。
あらためて、母音と子音について
(01/11/02)
言葉がはっきり聞こえるかどうか、の一つの目安として私たちがよく話題に乗せるのが「子音をはっきりしゃべる」ということがらです。特に私たちが気をつけようとするのは言葉やフレーズの頭の子音。で
も、子音があるのは言葉の頭だけではないですよね。それから、頭が母音の時、時としてフレーズの入りがおかしくなってしまうことがありませんか?あれ、どうしたらいいんでしょうかねえ。
私たちが普段使っている日本語は、元々あまり母音、子音の存在を意識させるような形で表記されていません。また、日本人の国民性や、歴史的経過もあると思いますが、あまり口をはっきり動かさなくてもしゃべれる言葉であることは、最近の言語学の研究でも分かってきているようです。
日本語にも、「五十音」という母音と子音の系列表示が実はあるのですが、これは西洋の各国語にある母音と子音の表記の区別を取り入れ、同じ子音を持つ音を西洋のルールを応用して作った表であり、日本語に元々あったものではありません。というわけで、わたしたちは、「唄う」という活動の中で、非日常的な言語表現に気を遣う必要に迫られていると言えるような気がします。
私たちが唄うときに、最も簡単に言葉をはっきりさせる方法として「子音をたてる」とか「割舌をよくする」というものがあります、これは、普段話しているときより口を激しく動かして、子音や母音の響きをはっきり作るものです。
いつもより激しく息を吐いたり、力をかけたりということが行われるわけですが、これ、やみくもにやっていてもぎこちなくなって、上手くいかないこともあります。要は、音が強く出る、はっきりするポイントをつかんで、それを実行すればよいのです。
たとえば、「t」の発音は、舌と上あごの内側をくっつけてから一気に離す、「m」の発音なら、上下の唇を合わせたあと一気に離す、そのタイミングと力のかけ具合で、かなり飛び方に違いがあります。母音では、口の形を変えるスピード、すなわち下あごやほお、舌などを動かすスピードで、響きの「輪郭」がかなりはっきりするのです。
これらに共通して大切なことは、どこをどのように使って音が出るのか、そのメカニズムを知り、効果的な発音を研究することです。ただ、メカニズムとか研究と言っても、難しいことではありません。音が出ているとき、顔や口のどこを使ったか、また、どんな形をしているかに気を配って、それらの使い方に少しずつ修正を加えていけばいいのです。
この時、息の使い方にも注意が向けられるとなおよいでしょう。私が練習でよく指摘するのが「s」ですね。長すぎて下品に聞こえるときが多いのですが、これは、息が口を通る速さと強さに加えて、通る時間の長さが影響しているわけです。短く、鋭く発音することで、比較的簡単に解消できることが多いのです。
さらに、歌う曲が日本語か、それとも外国語かによっても、使う部分の形や状態は微妙に変化します。冒頭に書いたように、日本語に比べて諸外国の言語は、発音により多くのエネルギーを必要とするようです。
また、英語やフランス語には、日本語にはない母音が存在します。こうしたことからも、顔や口の各部分の使い方に気を配ることは、より豊かな表現につながる、と言うことがご理解いただけたのではないでしょうか。
今回はこの辺で。では、またねん。
息から声への転換 〜ハスキーボイス・クリアボイス〜 (01/10/02)
声の質にはいろいろありますね。太い声、細い声、よく通る声、かすれた声・・・・。今日はそんな中でも、「ハスキーな声」と「クリアな声」の比較、そして、声と息の関係のあり方について話したいと思います。
人の声は通常、2枚のうすい筋肉の膜である「声帯」をすりあわせ、その境目に空気を通して声帯を振動させることで発生します。声の大小は息の量=声帯の振幅の増減、高低は声帯の緊張の度合い=声帯の振動数の増減で調整していきます。
さて、声帯がすり合わさり、その隙間を空気が通るとき、緊張の度合いに対して息の量が多すぎると、どうなるでしょうか。また、息を送ったとき、声帯に何らかの異常があって正しく振動しない場合はどうでしょうか。
多くの場合、これらの結果生じる声はいわゆる「ハスキーボイス」になるはずです。すなわち、声帯のすき間から息がもれ、声の振動に混ざってかすれたような音が入ってしまうのです。
では、息がもれないように声に変えて行くには、どうすればいいのでしょうか。専門性の高い話は他に譲るとして、ひとまず私たちが気をつけてみるとよいことは、「無駄な息を送らず、適量を適当な力配分で息を送る」ことでしょう。このへんはわりと歌っているときにあまり意識することではありませんが、容易に想像がつくことでしょう。
ところで、ハスキーボイスの逆の状態、すなわち、息の量が少ない場合はどうなるのでしょうか。今度は、声帯の緊張の方が高いのですから、同じ高さの音を出そうとした場合、音が「細く」なるという状態が想像されます。これは、息が十分に声帯を振動させられない状態であるわけです。
この状態を脱するためには、息を十分に送ってやればいいわけです。こちらはたとえば、高い音を鳴らすときなどに声がどうもカタく感じる、という時の原因の一つに考えてもよいかも知れません。
いずれにしても、声と息の関係というのは、意識してみると意外と奥が深いもので、強弱や高低によって音の響き方、届き方が変わってしまうことを防ぎ、逆にそれらを越えたところで、表現に幅を持たせることが可能になる、そういう性格のものであるといえるのではないでしょうか。
では、息のコントロールはどこで行うのでしょうか。「おなか」が真っ先に思い浮かぶ人が多いと思います。ですが、もう一度、歌っているときの自分の体にちょっと意識を向け直してみてください。
使っているのは、実は「おなか」だけではないのです。背中の筋肉、脇腹の筋肉、太ももやお尻の筋肉、さらには上半身の筋肉まで、実はある程度使っているのです。
考えてみれば、空気の入っているのは「肺」という袋であって、この袋を、息が一定の割合で放出されるようにコントロールするのですから、肺の運動に関わる筋肉がはたらくことは自然な動きであって、私たちが普段「脱力」しているのは、力を抜ききってしまうのではなく、体が自然な動きをすることが出来るよう、余分な緊張をとってやるためにしているわけです。
さらに、体をしっかり支え、体の自然な動きをサポートする筋肉のはたらきまで考えれば、こうしたことに合点がいっていただけると思います。
では、具体的にどの部分をどんな風に使ったら、よい声が出るのか。白状しますと実は私も「こうなんですよぉ」なんて具合に、手取り足取り出来るほどのノウハウは持ち合わせていないのが実状です。
ですが、自分自身、この主張では自分の経験からお話ししている部分が少なからずあるので、ある程度の信憑性はあると確信しています。
ですから、みなさんにおいては、「じゃあ自分の声はどうなんだろう?」てな具合に、歌うときに自分の体にチェックを入れてみて、さらにいろいろ工夫していただければ、よりよい声を得ることが出来ると思うので、今日の話はそのきっかけにでもしていただければ、と思っています。
今回はこの辺で。では、またねん。
息づかいと音・声 〜人であるかぎり〜 (01/10/02)
人が楽器を演奏したり、歌を歌うとき、演奏に入る直前に、おそらく必ずと言っていいほどやっているであろうことがあります。なんだと思います?
答えは「息を吸う」です。やってると思うんだけどな、これ。歌とか管楽器だけじゃなく、弦楽器とか、ピアノとかでもそうだと思うんです。これは人が何らかの運動をする時のことを考えてみると、合点がいくと思うのです。
人が運動するには、筋肉を緊張、または収縮させる必要があります。このとき、多くの場合、人は呼吸を止める、もしくは吐き出す動作をします。そして、筋肉の緊張や収縮を息を吸いながら行うのは結構難しいのです。
実際にやってみてください。けっこう意識して、しかもそれなりに無理をしないと、出来ないものなのですよ。という具合に、運動生理学の点から見ても、運動と呼吸には密接な関係があります。ではこれが、音楽の世界ではどのように生かされているのでしょう?
どんな種類の楽器でも、動作をするときには何らかの肉体的・精神的緊張を要します。そしてその状態に入るとき、呼吸のコントロールを無意識のうちに行っています。
これをアンサンブルの中で行うときに、演奏者が互いに同じタイミングで呼吸することで、演奏の入りをそろえることが出来るわけです。アンサンブルをする上で「呼吸を合わせる」という作業は、タイミングをはかるために非常に大きなウェイトを占めるのです。
では次に、演奏中の呼吸について考えてみましょう。ここでいう「演奏中」とは、音や声を出している最中、ということです。器楽の演奏中については省略して、合唱の場合で考えてみることにします。
第2回の主張の中で私は、楽譜に描かれていない表現要素としての「情感」の話をしましたが、この「情感」を音に乗せる上で不可欠なのが、息の流し方、そして、音への転換の仕方だと、私は考えます。
すなわち、音の強弱や高低に限らず、響きの変化や緊張感を表現するためには、単に息を流すだけでは不十分で、出し始めるタイミングや量の変化、勢い、そして、声帯をはじめとする体の各器官が上手に連携をとって、息を最適なバランスで楽音へと転換できると、音楽の表現の幅が格段に広がると思うのです。
ここでも、アンサンブルの場合を考えれば、歌い手が相互に息と体のコントロールを同調させることで、情感をさらに増幅させることも可能になってくるでしょう。
さていま、息と声のバランスの話が少し出てきました。これは次回に少し紙面を割いて書きたいと思います。今回は別の話を最後にしておきましょう。
男性と女性では、呼吸法に違いがあることは、もうご存じの方もいらっしゃると思いますが、その話。一般には下の通りです。
男性:腹式呼吸・・・横隔膜が上下して行う→「腹が出入り」する
女性:胸式呼吸・・・胸骨と肋骨に囲まれた胸腔が肋間筋のはたらきで動いて行う→「胸が上下」する
この違いの理由は明快で、女性は妊娠するからです。体内に胎児がいるときに腹部や腰にかかる重さを支えるため、また、呼吸によって内臓が子宮を圧迫しないため、おなかを動かさないですむような仕組みをとっているのです。一方、腹式呼吸は胸式呼吸に比べ、より多くの空気を吸うことが出来、長く歌うことが出来るのでこちらをとっているのです。
これを見ると、女性ではふだんの生活と歌うときでは使う筋肉が違うことがわかるでしょう。女性の方がより意識的に体を動かす必要があるわけです。このことも頭の隅に置いていただけるといいと思います。
今回はこの辺で。では、またねん。
主体的解釈の重要性 (01/10/02)
私は、音楽という表現手段にある種の「大前提」があると考えています。それは何かとたずねたら?(わかった人は手を上げてー)、わかんないこと言っておちゃらけてる場合じゃないですね。
話を戻しましょう。それはすなわち、「聴き手の存在」です。『そんなん、唄って終わりで、聞いてる人なんかいないことだってあるじゃん』って思う人もいるかもしれませんが、考えてみてください。私たちは、演奏しながらその音を聴いてるでしょ?日頃の練習の中でも、最後に合わせようか、って言って演奏しながら、その音、きっと聴いてるんです。
これが、たとえば演劇の場合、演じている役者さんからは、舞台の全体は見えないんですよね。でも音楽であれば、演奏者は演奏中のあらゆる瞬間に、できあがった「作品」を鑑賞することができるんです。
ということは、言い換えれば、私たちは唄う楽しさと聴く楽しさを同時に感じることができるわけですね。みなさんも経験があると思うのですが、自分の旋律を唄いながら他パートとのからみを聴いていて、ふっと心が動いたりすることがありませんか?
私なんぞは最近めっきり涙腺が弱くなったもんで、前に立ってても『やばいっ!』と思うことがけっこうあったりします。これは、聴いている人が何らかの精神的バックグラウンドを持っている状態、すなわち、気持ちが高ぶっているとか、不安定であるとか、そういう場合もあるでしょう。
が、これとは別に、その楽曲について具体的に思い入れがあるとか、楽曲の世界について何らかのイメージを持っているとか、そういった場合も、曲を聴くことで感情が揺れることがあると思います。
私たちが音楽を演奏する上で心がけておきたいことの一つに、私は「歌い手が何を伝えようとするのかを念頭に置いて演奏する」を挙げたいと思います。第1回で私は、音楽に主体的に取り組むことの必要性について少し書きましたが、このことは前に書いた点からも言えることだと思うのです。
演奏者は、演奏中のあらゆる瞬間に、できあがった作品を鑑賞できる、と書きましたが、ということは、鑑賞しながら常にその作品に改良を加えることができる、とも言えるでしょう。そして、常によりよい作品を自らの手で鑑賞できる、ある意味でとっても「おトク」な立場にいると言えるでしょう。
実は今回を含め、最初の3回で書いてきたことはけっこう古くて新しいもので、以前から「メンタルハーモニー」という言葉で語られてきました。心と心のつながり無くしてハーモニーは作れない、というのがこの言葉の意味するところですが、わたしはこの「心と心のつながり」を「歌い手相互の主体的な関わりあい」と言い換えたいと思います。
すなわち、主体的な解釈無くしてハーモニーは作れない、といったところでしょうか。ま、これはけっこうきつい言い方になるので、主体的な関わりがハーモニーをより深めていく、と言うことにしましょう。
いずれにしても、演奏者が楽曲と関わるとき、その歌い手が楽曲に対して抱く様々な感情、さらに、演奏に際しての精神状態など、演奏者のメンタリティの形成には、的確な楽曲分析の裏付けが非常に大きなウェイトを占める、と考えられるのではないでしょうか。
今回はこの辺で。では、またねん。
我々は「音」や「音楽」を何に利用し、またこれらを使って何を表現しているんでしょうか。一つの大きな要素は、感情、喜怒哀楽といったものではないでしょうか。そもそも私たち人間が音を使ってコミュニケーションを取り始めたときに使われたのは「声」であり、それはある種の「叫び」であったと思われます。
これすなわち、感情の発露であったわけですよね。それが数千年の時を経て、人間の知恵によって音楽という表現に変わってきたわけです。私たちは、実に多様な音楽の表現の中でも、ある意味で最も原始的な手段を用いた分野に関わっているといえるでしょう(ちょっと大げさかな?)。
それでは、様々な方法によって作り出される「楽音」による表現が持つ、ある種の共通性に目を向けてみましょう。たとえば高音と低音、緊張と弛緩、開放と収束(?)・・・。
こういった要素を縦横に組み合わせて、私たちは様々な感情を音に託していきます。音楽の歴史の始まりにあっては、その表現の手段は「人間の声」が圧倒的に多かったわけですが、時代が下るにつれてさまざまな楽器が誕生し、その音の性格も非常に多様になっています。
前に書いた共通要素は、作曲者の「おもい」であるとか、「印象」であるとかいったものを表現するために用いられているわけですが、さて、タイトルにも載せました、「音」と「情感」との間にはどのような関係があるのでしょうか。
この話をするためには、音楽を記録する手段として最も伝統的なもの、「楽譜」についての話をしないわけにはいかないので、ちょっとそちらに触れておきましょう。 楽譜はご存じの通り、目に見えない「音」という物理現象を記録するために、いくつかの記号を用いて視覚的に表したものです。
ですが、楽譜は音の高さ、長さ、強弱、音の持つ意味(曲想という言葉で表せます)までは表現できますが、じつは、音楽を表現する上で最も重要な「情感」の部分で、充分な記録がなされない、という代物なのです。
しかし、言い方を変えると、我々が音楽を表現する時に、最も自由な表現が許される要素は、この「情感」の部分である、ということができるのではないでしょうか。
楽譜に書いてある要素は少なくとも、その通りに表現する義務が演奏者にはあります。そして、たいていの作品は、楽譜に書いてあることを忠実に再現すれば、自ずとそこに「作曲者の意図」が何らかの形で浮かび上がってくるもののようです。
大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者の朝比奈 隆氏は「楽曲を楽譜に忠実に再現すれば、その楽曲は80%完成したといってもいい」と語っています。これを逆に考えれば、残りの20%は、まさしく私たちに与えられた「表現の自由」であると言えるでしょう。
たとえば、われわれがある長い音を唄うとき、この音をどのように伸ばして唄うのか、まっすぐに、全く変化を付けずに唄うのか、それとも規定の音量の中でさらに強弱をつけたりはしないのか(強弱とは、単に記号によって表現される数段階では収まらないものだからです。この辺の内容は後の機会に改めてお話ししたいと思います)、緊張を含ませたり、逆に弛緩させていったりするのか、という要素を考えてみましょう。
この要素は、楽譜に書かれたことや、詩の内容、さらには作曲者、作詩者の作品研究や、作者の生き様にまで踏み込んで、演奏者が調べることによって、その表現に多様性が生まれることになります。
同じ全音符であっても、また一見単純な上昇音型であっても、その表現は様々な可能性を秘めていると言うことができると思うのです。われわれ演奏者は、そういった可能性を見いだすために、知識を身につけると同時に、感受性を磨いていくことが大切になってくるのではないかと考えています。
その方法はいくつかありますが、それは別の機会に譲るとして、今回はここまでにしたいと思います。
では、またねん。
タイトルにある2つの言葉、お聞きに成ったことはあるでしょうか。それぞれの意味は、
音楽:
わたしたちが普段何気なく接している「音楽」を構成する音
雑音:
音楽の構成や表現にとってじゃまに成る音
という具合に分けられるでしょうか。ただ、この分け方には若干不十分な点があると考えられます。それは、音楽がいつでも聞く人によって心地よい、意味のあるものとは限らない、という要素が考えられるからです。
すなわち、どんなに優れた音楽でも、それを必要としない人、状況によっては「雑音」にすぎない、ということです。この辺の話は後に譲るとして、今回はひとまず、「音楽にじゃまになる音」という視点でお話したいと思います。
私たちが毎週のように接している音楽は、ヨーロッパで長い時間をかけて構築されたルールに則して作曲された作品です。このルールの始まりは紀元前にさかのぼるものだと言われており、かのアリストテレス、ピュタゴラス、プトレマイオスといった哲学者の名前が、音楽史上に名前を連ねているほどです。
が、さすがに数千年の時間を経てくるにつれ、このルールにも変革の波は訪れており、近年では無調性の音楽とか、十二音階の音楽などといった、従来の和声的な概念とは異なる感覚に基づく楽曲が見られるようになっています。
中には、ジョン・ケージのような、「身のまわりにある全ての音が音楽である」という観点から作られた作品もあったりします(題名は忘れましたが、演奏開始と同時にピアノのふたを閉じてしまい、ある時間が経ったところでおもむろにふたを開け、「演奏を終了」する、という、なんだかだまされたような気がするものです)。
私たちの接している音楽にもう一度戻ってみると、これはなお、厳然としたルールの上に成り立っている、といいちところですが、実は個々の作品を見ると、2,3世紀前はタブーとされていた作曲の技法がかなりの割合で出てくるのも事実です。厳然としているはずの、そして私たちが「ふつうだ」と思っている何気ない旋律も実は、そういった大きな混沌の中にあると言えるかもしれません。
私たち、すなわち日本人が演奏する音楽の特殊性に触れるとするならばどうでしょうか。私は「西洋の旋律に日本語がのっている」ということができると思います。私たちの話す言葉は明らかに、西洋の各国語とは異なる音構造、文法構造を持つのです。
そこに自ずと、表現する上で違いがでてくることは間違いありません。この違いは、私たちが外国語の詩を外国語で唄う時も言えることでしょう。私たちが普段使うことのない音構造を用いて唄うのですから、その外国語の発音に関する技法に習熟するための、特別な努力が必要になってくるでしょう。
少々脱線した感もありますね。話を戻しましょう。いずれにしても私たちは、こんなにも「何とも言えずわかりにくい」世界の中で音楽をやっているのです。また、そのわかりにくい部分を100%解決することは、おそらく不可能でしょう。
とすれば、私たちに残されたものは何なのか。これは意外に、近くにあるのではないかな、と私は思ったりしています。それは、「自分が今表現している音楽に対して、どのくらい主体的に取り組んでいけるか」ということ、もう少し具体的に言えば、「今唄っている歌を自分が、又聞いた人が美しいと思えるようにするには、何をしたらよいかを考える」ということではないか、と思っているのです。
こうやって書いてくると、何だかものすごーく訳の分からないことのように思えてきたりしますが、私が今シリーズの最初に敢えてこんなことを書いたのは、みなさんに考えるきっかけを改めて投げてみたいと思ったからです。
疑問を持たずに、またこういった混沌と特殊性を知り、考えることなしに歌を歌っても、自分の表現を見つめ直すことは難しいのではないか、と思ったのです。
そこまで行かなくても、普段何気なく動かしているからだと頭に、もう一度目を向け直して、自分とMの歌のために、何をすればよいのか、について思いをめぐらせてほしいな、と思っています。
そうすることで、私が目指している「指揮者のいらない合唱のできる団」の実現に一歩近づくでしょうし、今のMのうたが、もう一段ステップアップすると思うのです。
最初からちょっと重たい話になりましたが、今日はこの辺で、ではまたねん。
大っ変、ご無沙汰しておりました。この「音楽講座」、しばーらくプツッと途絶えた状態でありました。前回はいつ終わったんだっけ、てえくらい前ですね。どんなこと書いてたか、思い出していただけます?ちなみに私はきれいに忘れてます。はっはっは。でもね。気にはしてたのよ。
さて、10月です。「天高くタケ肥ゆる(もう肥えてるって話もありますが)」秋本番を迎えました。我々の本番ももうすぐですね。さて今回は、全7回の内容のおさらいと、第8回として
「合唱練習の3要素」
〜歌って 聴いて 響きあって〜
と題してお送りします。
さて、以前の7回で何を書いたか、ですが、以下に題名をまとめると
第1回目
「五線に書いてあること 1」 〜感覚をみがこう〜
キーワード: 音高の感覚は誰にでもある、楽器を使って確認すればいい
第2回目
「五線に書いてあること 2」 〜”感情”と音の強弱〜
キーワード: 音にどんな情報があるのかをくみ取る、どの歌詞が重要か感じ取る
第3回目
「音の緊張と弛緩」 〜これがあるから「うた」ってス・テ・キ〜
キーワード: アルシスとテーシス、意識的な緊張と弛緩、自分の声のイメージをつかむ
第4回目
「五線に書いてあること 3」 〜音の長さと発語について〜
キーワード: 音符の長さは「母音」から、発語は鋭く
第5回目
「発音と発声の関係」
キーワード: 子音と母音を分ける、外国語は舌と唇の使い方で変わる
第6回目
「五線に書いてあること 4」 〜リズムとテンポについて〜
キーワード: リズム感の誤差、パーソナルテンポ、歌いやすいテンポは聞きにくいテンポ?
第7回目
「ハマッた和音てどんな和音?」 〜今更ながら純正律のミリョクについて〜
キーワード: 純正律と平均律の差、合唱は純正律で転調が可能
この内容に今回の話を合わせると、だいたい「歌うこと」について、今のMの(私を含めた)メンバーが頭に置いて行くべきことはひとまずそろうと思うのです。
では、今回の話。
私が大学の合唱団にいた頃、プロの先生が話していたことなんですが、音楽を合奏、または合唱するとき、演奏を上達させるための3つの要素がある、ということなんです。すなわち、
周りの人の演奏によって、自分の演奏が高まる
自分の演奏によって、周りの人の演奏が高まる
周りの人に迷惑をかけない
の3つです。何を今更、と言う方もあるでしょうが、これって結構、ふだん頭に置かずに歌ってしまうことないですか?え、ない?なら言うことなし、ですね。
上の3つは、言い方を変えると周りと上手に駆け引きしながら歌う
となるでしょうか。これは、今までの7回の講座で書いてきたことをお互いに歌い合い、そのタイミングと度合いを調整し合うということになるでしょう。発語、発音のタイミングと強さ、そして音の高低・強弱、さらに曲想の表現の度合い、などなどなど…。
このところ、皆さんの練習中の様子が少し変わってきたような気がするのですね。以前より、練習に主体的に参加されていると思うのです。もっとも、以前からバシバシそうしてきた方もいらっしゃいますけどね。
そういう方が増えると、指揮者は次第に嬉しくもなり、困りもする、という複雑な心境に至るのです。
私なんぞ根がワガママですから、みんなが言うこときいてくれないと、結構スネたりしてね。
でもMの指揮者はアマチュアなのですから、指揮者の音楽性が絶対ではないのです。これは、重ねて皆さんに、そして私自身にも言っておきたい。私の立場は、あくまでコーディネーターなのです。
ただ、会議の議長と違うのは、私も楽曲や演奏に関して意見をバシバシ言う、という点でしょうか。ただのまとめ役ではなく、指揮者と歌い手がそれぞれの音楽性を表現しあい、その共通点とか、止揚点を追及していく、それがMの指揮者のあるべき立場だと思うし、私自身それを意識して練習しているし(そのわりに自分の考えを断定的にしゃべっちゃうことも多いんだけどね)、それがMの練習にこれからも必要だと思うのです。
先日、ある方から「Mの音楽性は高田の音学性だ」との言葉を頂きました。指揮者としては嬉しい限りです。私自身、皆さんは着実に力をつけてきていると思います。だからこそ、皆さんが持っている力をさらに引き上げるために、今以上のお互いの演奏、表現を意識していきましょうよ。
なんとなく、まとめてしまったようですね。このままだと、この「音楽講座」、終わっちゃいそうな雰囲気ですが、
こーれぢゃ終わんないもんね。
私自身は、まだ書き終わった気がしないのです。というか、自分の持ちネタとしては一応終わったんだけど、まだまだこんなもんぢゃないはず、なのです、この世界は。
私もこれから、もう一段高みにのぼるため、さらにいろいろなことを吸収していきたいと思っているのです。そこから、皆さんにお伝えできることがあれば、いずれまた「音楽講座」を書いていきたいと思っています。ひとまず、一旦休講とさせていただきます。
長らくのおつきあい、ありがとうございました。では、ひとまず。
written by TAKESAN
音譜に書いてある音譜の長さって、みなさんもうご存知ですよね。
四分音符は1拍分、二分音符は2拍分、という具合です。 ところで、あの楽譜が表している音、
楽器なら、音が鳴った瞬間から長さを数えればいいですね。
では、音に言葉が伴う歌の場合はとうなっているのでしょうか。
音に言葉をつけて歌う場合、ついてまわるのが子音という、 音譜で表される音(以下「音符の音」とします)以外の音。 それはたいてい、「音符の音」の前にでてきます。
たとえば、「季節のたより」の3番の冒頭でいうと、 「しちがつはー…」の「し」はShの子音とIの母音の組み合わせですね。 このとき「音符の音」の長さは、Sからでなく、Iから数えるべきでしょう。
「そんな細かい話、どーでもいーじゃない」という声が聞こえてきそうですね。
まあ、実際そんなに厳密なものでもないんでしょうが、 意識としては持っておいてほしいんですね。 子音に対して、「音符の音」とは違うんだという意識がないと、 曲全体が何となくしまらないものになってしまうんですね。
あまり馴染みのない外国語、とくにラテン語、ドイツ語あたりは
みんなわりと言葉にも気を使うんです。 でも、日本語の歌になると、どうしたってその辺は曖昧になってしまう。 ふだん使い慣れているだけに、さらっと行ってしまうんですね。
でも、舞台語という考え方でいけば、日本語だって日常語とは全くちがうものなんですよ。
そこで気にするべきことをひとつ、「発語は鋭く」、これですね。
すなわち、子音はハッキリ、かつ冗長にならないように。 これができると、表現がちょっとおしゃれになるんじゃないですか? ただし、言葉本来の意味が分からなくならない程度に、ですけどね。
今回の内容、考えてみたらみなさん、知ってることだったかもしれない、です、ね。
ま、いいか。では、今回はこの辺で。
世の中には、実にいろいろな言葉があります。
現在、地球上にある国の数は約数百数十ヶ国、それらの国々が使っている、 また使っていた言葉を考えると、200くらいになるのでしょうか (結構テキトーな勘定ですが)。
それぞれの言葉には、特徴的な発音が見受けられます。
口を開くもの、閉じるもの、息を吐くもの、詰めるもの、息をこするもの、 口を「破裂」させるもの、 唇の使い方にも、いろいろありますね。 我々が歌うときには、そういった、それぞれの言葉に特有の発音を、
基本的な発声法と同時に行う必要が出てきます。
さて、ここで前回のお話の内容をちょっと思い出してみましょう。
言葉というのはおそらく例外なく、母音と子音という2種類の音があるわけです。 そして、それぞれを一度分けて考え、あらためてよどみなくつながるように
組み合わせて発音するんだ、と意識することで、 理想的な発音に近づくことができるでしょう。
我々が歌を歌う場合には、基本的に母音はどんな音でも、口の奥の方、
軟口蓋のあたりを大きく開けることで、 また子音は口の前の方を使って発音するべきだと思うのです。 このような使い分けが、それぞれの音をよりクリアに響かせることに
つながると思うのです。
さらに、英語のaにあたる3種類の発音、あいまい母音、二重母音など、 細かい部分に気を配っていけば、
より高度な演奏ができる、というわけですね。 たとえば、二重母音の扱いは基本的に、前半の母音を長くのばし、 音の最後に母音をつける、 とか、あいまい母音の発音は意識的に、他の母音より口を小さく開ける、
とかいった具合です。
ちょっと高度なことになるかもしれませんが、外国語の発音をする場合、
ポイントになってくるのは舌と唇の使い方だと、僕は個人的に思っているのです。 一つ例を挙げると、「彼女」という意味の英語、SHEを発音をするときには「すぃー」
ではなく、日本語の「しー」の発音でよい、などと言いますね。
でもあれ、厳密に言うと、日本語の「しー」とも少し違うんですよね。
唇の使い方一つなんですが、日本語の時より、少し口を縦に開けて、唇を少し丸めながら 息を出す、(こんなの説明するより、見てもらった方がいいですが)とかね。 他にもいろいろあるんですが、ま、練習の中でもまた話ができると思うので、今日は このくらいにしておきましょう。